■あくせすWebサロンTOP > ■放送時評index

京都新聞「放送時評」
03年4月


毎日悲惨なニュースを見るのはなんとも憂鬱だ。しかし長年報道現場にいたものの習性で、ついスイッチを入れて、自分の感情をもてあます。
 私事にわたるが、私は金沢の生れで、終戦が近いころは幼児だった。空襲警報のサイレンが鳴るたびに母と一緒に西に東に逃げていたらしい。7月19日は東に逃げて、西の空が真っ赤に燃えさかっていて、てっきり金沢が燃えてしまったと覚悟していたら、福井の人たちがやられていたのだという。また8月1日は西に逃げて今度こそと覚悟していたら、富山が全滅していたという。「鬼畜米英」という当時のコピーが、複雑なリアリティで蘇る。戦争後も長い間、私は正午のサイレンが鳴るたびに、母に防空頭巾を被って逃げようとせがんでいた。イラクやパレスチナの子どもたちは、昨日の私である。
 
 イラク関連ニュースで「感情をもてあます」時というのは、"中央軍指令部"だの"空母の上"だのから、得々と戦況をまくしたてる記者やレポーターが、空爆をうけている子どもたちや民衆への想像力を持ち合わせているのだろうかと感じるときである。
 私のわずかな海外取材の経験からも、戦場での取材の過酷さは想像がつく。強い取材制限の中で、精一杯伝えているだろうことも察しがつく。しかしジャーナリストなら、せめて「米英軍の検閲」を受けていることぐらいは、視聴者に告げるべきだろう
一人一人のレポートはまだ同情するとして、問題はニュース全体の構成、米英軍とのスタンスの取りかただ。NHKテレビのニュースを見ながら、項目やコメントを書き出してゆくと、米英軍がどのようにイラクを追い込んでいくかを伝えようというデスクの"熱意"が、しっかり伝わってくる。「作戦に支障が出ることが懸念される」だの、兵士を「戦場で働く人たち」とか「私たちの部隊は○○へ向かう」などと表現していたのにはたまげた。
戦乱に逃げ惑う人々、絶対的な強者に追い詰められていく市民の情報は申し訳程度で、意味のない武器の解説を延々と聞かされると、ジャーナリズムというにはいかにも情けない。ラジオはまだましだが、報道全体は視聴者感覚や世論とはかなりずれている。

阪神淡路大震災を体験した編集者と話す機会があった。あのときも、テレビで延々と映し出される映像や、解説者のコメントに、みずからが置かれている状況とのとてつもない隔たりを感じたという。外から見るとはこういうことか、当事者を「素材」にするとはこういうことか、喪失感や虚脱感は体験者でないとわからないのか、とつぶやいていた。
報道の独立性で伝統のある英国放送協会(BBC)は「戦争」という言葉の傍ら、自国軍さえ「侵略部隊」と表現する。フォークランド紛争の時も前の湾岸戦争の時も、そのスタンスは変わらない。反戦側に与せよとまでは言わないが、公正・公平な報道、多様・多角的な視点、不当な権力の監視などの原点を堅持してこそのジャーナリズムではないか。しっかりしてくれ。

市民とメディア研究会・あくせす会員
津田正夫